AI が登場してから,専門家の訃報が増えた.
ただし,死んだ本人が書いた訃報ではない.たいていは隣の職種にいる人が,まだ働いている人の机を眺めながら書いている.
経営者が,エンジニアは不要になったと言う.
エンジニアが,デザイナーは不要になったと言う.
実装者が,コードレビューをする人は不要になったと言う.
葬儀だけが先に始まっていて,棺の中では本人が普通に仕事をしている.
この光景は,かなり奇妙である.
AI 時代は,訃報が早い
AI は,いろいろなものを作る.コードを書く.画面を作る.文章を書く.設計案を出す.レビューコメントを書く.少なくとも,それらしい形を,驚くほど短い時間で出してくる.
すると,人は成果物を見て,職業の終わりを連想する.
コードが出てきた.なら,エンジニアはいらない.
画面が出てきた.なら,デザイナーはいらない.
指摘が出てきた.なら,レビューする人はいらない.
この推論は速い.AI と同じくらい速い.
そして,かなり解像度が低い.
目の前に出てきた成果物と,その成果物を作る専門職の仕事全体を,同じものとして扱っているからである.
仕事の表面には,納品物がある.しかし,仕事の本体は,納品物だけではない.何を作るかを決め,なぜ作るかを問い,作らないものを選び,失敗の形を想像し,品質を判断し,何かが起きたときに責任を引き受ける.その全体が仕事である.
AI が成果物の一部を出せることと,専門家の機能全体が不要になることのあいだには,かなり長い廊下がある.
私たちは,その廊下を走っているのではない.ときどき,入口から出口へ瞬間移動したことにしている.
「不要」は,かなり重い結論である
便利になった,速くなった,人数を減らせるかもしれない,役割が変わる.これらと,不要になった,は違う.
不要とは,その機能を取り除いても,必要なものが損なわれないという判断である.
この判断をするには,少なくとも,その専門家が普段何をしているかを知らなければならない.正常なときだけでなく,失敗したときに何をしているか.目に見える成果だけでなく,何を未然に防いでいるか.手を動かしている時間だけでなく,どこで判断し,誰と調整し,何を背負っているか.
そこまで見た上で,その機能が別の場所へ完全に移ったと言えて,初めて不要論の入口に立てる.
経営者がコードの生成速度だけを見て,エンジニアの不要を宣言する.しかし,曖昧な事業要求を仕組みに変え,障害の可能性を見積もり,運用と変更の費用を選び,事故が起きたときに原因を探す仕事は,どこへ移ったのか.
エンジニアが生成された画面を見て,デザイナーの不要を宣言する.しかし,情報の優先順位,体験の一貫性,アクセシビリティ,ブランド,利用者の迷い,そして良し悪しを判断する感覚は,どこへ移ったのか.
実装者が AI の指摘を見て,レビューする人の不要を宣言する.しかし,局所的には正しい変更が全体の方針を壊していないか,組織がどのリスクを取るのか,この実装を誰が理解し続けるのかを考える仕事は,どこへ移ったのか.
消えたように見える仕事は,単に別の人へ押しつけられていることがある.利用者へ移る.運用担当へ移る.未来の実装者へ移る.事故が起きた日の自分へ移る.
移譲先の名前を言えないまま「不要」と言うのは,仕事を消したのではない.帳簿から見えなくしただけである.
専門家の自虐だけが持っているもの
エンジニアが,自分の仕事の一部を AI へ移譲し,「このままでは自分はいらなくなるかもしれない」と言う.そこには,確かな実感がある.
昨日まで自分が一時間かけていたものが,一分で出てくる.自分が積み上げてきた技術が,何の説明もなく再現される.手元に残る仕事が減り,自分の判断まで機械へ移っていく感覚がある.
専門家の自虐には,内側からの観測がある.
何が以前と変わったのか.どの能力の価値が落ちたのか.何がまだ残っているのか.本人は,少なくとも自分の仕事について,比較するための過去と現在を持っている.
そして,その人は自分を不要だと言っている.宣告によって失われる席も,まずは自分の席である.
ここが大きい.
自虐は,自分を標本として差し出す.専門外からの不要論は,他人を標本として机に置く.
もちろん,専門家の自虐も常に正しいわけではない.自分の一部しか見えていないこともあるし,一時的な衝撃を職業全体の終わりへ広げていることもある.自虐が気持ち良くなり,世界より先に自分を見限っているだけのこともある.
だから,専門家が「自分たちは不要になる」と言えば,そのまま未来予測として正しいわけではない.
ただ,そこには証言がある.
専門外の人が,その専門家の仕事を十分に知らないまま不要を宣言するとき,そこには証言すらない.あるのは,外から見えた成果物と,自分にとって都合の良い結論だけである.
専門家の自虐以外で不要論を成り立たせたいなら,少なくとも自虐以上の証拠が要る.
不要論は,対象より話者をよく表す
誰かを不要だと言う言葉は,その誰かについて説明しているようで,しばしば話者の欲望を説明している.
経営者がエンジニアを不要だと言う.それは,本当にエンジニアの機能が消えたという観測なのか.人件費を減らしたい,開発を速く見せたい,専門家から「それは無理です」と言われずに済ませたい,という願望ではないのか.
エンジニアがデザイナーを不要だと言う.それは,本当にデザインの機能が消えたという観測なのか.細かな意図を聞かれたくない,自分の実装へ修正を返されたくない,画面まで自分の支配下に置きたい,という願望ではないのか.
実装者がレビューする人を不要だと言う.それは,本当にレビューの機能が消えたという観測なのか.差し戻されたくない,説明したくない,早く merge したい,という願望ではないのか.
もちろん,毎回そうだとは言わない.本当に仕事の構造が変わり,役割を減らせることはある.
ただ,専門家はしばしば摩擦を作る.問い返す.止める.曖昧さを指摘する.安易な結論に条件を付ける.「できる」と盛り上がっている場で,「できるが,この費用がある」と言う.
この摩擦は,外から見ると仕事を遅くしているように見える.
しかし,その摩擦こそが仕事である場合がある.
不要論のいくらかは,専門性が不要なのではなく,専門性によって自分の速度や自由が止められることへの不満でできている.
専門家を消したいのではない.自分にとって都合の悪い専門性だけを消したい.
AI は,その願望に未来という美しい包装紙を巻いてくれる.
うまくいった専門性は,何も起こさない
専門家の仕事には,成功すると見えなくなるものが多い.
エンジニアが障害を防いだとき,画面には何も出ない.デザイナーが利用者の迷いを減らしたとき,利用者は迷わなかったことに気づかない.レビューで将来の事故を止めたとき,その事故は発生しないので,実績として観測されにくい.
何も起きなかった,という成果には,スクリーンショットがない.
一方で,AI が生成したコードや画面や指摘は目に見える.数えられる.速さも測れる.デモにできる.
目に見える生成物と,起きなかった失敗を並べれば,前者の方が仕事に見える.これはかなり不公平な比較である.
専門性の価値は,作ったものだけでなく,作らなかったもの,避けたもの,止めたものにも宿る.
その領域を知らない人ほど,そこに何もないように見える.
見えていないことと,存在しないことは違う.
敬意とは,無条件に信じることではない
専門家へ敬意を持て,というと,専門家を神聖化しろという話に聞こえるかもしれない.
そうではない.
専門家も間違う.自分の領域を守るために大げさなことを言う.専門用語で煙に巻く.変化を嫌い,既得権を守り,新しい道具を過小評価する.専門性があるからこそ,過去に最適化されすぎることもある.
だから,専門家の言葉を無条件に信じる必要はない.反論して良いし,成果を評価して良いし,実際に役割を減らせるなら減らして良い.
敬意とは,同意ではない.
敬意とは,自分には見えていない仕事がある可能性を残すことである.
知らない領域について,知らないまま断定しない.成果物の一部を再現できたからといって,役割全体を理解したことにしない.専門家が守っているもの,防いでいるもの,判断しているものを一度は尋ねる.
その上で不要だと判断するなら,何が不要になり,何が残り,判断と責任がどこへ移るのかを説明する.
専門家に,自分の存在価値を無限に証明させてはいけない.「お前は本当に必要なのか」と問い続ける側にも,証明する責任がある.
不要を宣言する側が,いちばん高い解像度を要求されるべきである.
本当に不要になる仕事もある
もちろん,本当に不要になる仕事はある.
技術によって工程が消える.役割が統合される.以前は一つの専門職が必要だったものを,別の職種が道具を使って担えるようになる.AI によって,その変化は速く,大きく進むかもしれない.
専門家への敬意を理由に,変化を否定してはいけない.仕事は人間の尊厳を守るためだけに存在しているわけではないし,不要な工程を保存するために利用者が費用を払い続ける義務もない.
しかし,仕事が本当に不要になることと,誰かが早く不要だと言いたがることは別である.
必要なのは,葬儀を永久に禁止することではない.死亡確認をすることである.
機能は本当に移ったのか.品質は保たれているか.失敗したときに誰が気づくのか.誰が判断し,誰が責任を持つのか.その専門家がいない状態を,短いデモではなく,長い運用の中でも維持できるのか.
そこまで確認して,初めて終わりを語れば良い.
まだ息をしている人の横で,将来は死ぬはずだと棺の寸法を測り始めることを,先見性とは呼ばない.
結論
専門家の自虐には,実感がある.自分の仕事を AI へ移譲し,自分の手元から何が消えたかを知った人の言葉である.正しいとは限らないが,少なくとも内側からの証言である.
専門外の人間が,任意の対象へ不要を宣言するなら,その証言を超えるだけの理解と証拠が必要である.
何の仕事が消えたのか.
判断はどこへ移ったのか.
失敗は誰が見つけるのか.
責任は誰が引き受けるのか.
それを説明できない不要論は,未来予測ではない.現在の仕事が見えていないという自己紹介である.
AI は,多くの専門家の仕事を変える.一部を奪い,一部を軽くし,一部を別の形にする.職業そのものが消えることも,きっとある.
だからこそ,雑に終わらせてはいけない.
専門家を無条件に信じる必要はない.しかし,理解していない専門性へ,理解していないまま死亡宣告をするべきでもない.
専門家の葬式を,勝手に始めるな.
少なくとも,棺の中にいる人へ,いま何の仕事をしているのかくらいは聞いた方が良い.